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 音を立てて楢斐の関が開くと同時に、柔らかな風が吹いて杲の髪を揺らした。澄んだ心地好い風なのに、何処か寂漠としたものを感じる。杲は関門の先に在る人影に目を遣り、本当に二人だけで来たのか、と思った。稀代から話を聞いてはいたが、まさか椛峅の姫が護衛を一人しか伴わずに他国を訪れるとは。杲は視線を鋭くし、何か変事でもあったか、と思う。姫の護衛だと思われる人影が手綱を握っている其の騎馬は、成程、屈強な体躯をしているのだが、肝心の護衛たる人物の背丈は姫とそれ程変わらない。或いは此の者は椛峅の方士か、と考えを巡らせながら、杲は門外の二人に向かって拱手し礼を執った。
「ようこそお越し下さいました。こちらの都合で姫君をお待たせしてしまった御無礼をお詫び申し上げます」
 杲は言いながら深く頭を垂れ、同時に、関門の脇で三人の方士も低頭する。来客の二人は辺りで失神している兵卒を視界に入れたのか、何か得心した様な息を漏らした。
「いいえ、お詫びしなければならないのはこちらの方です」
 耳に届いたのは、胸に沁み入る様な澄んだ声だった。しんとした暗い静謐に広がり、密かに鼓膜を震わせる清廉とした響き。例えるならば、そう、月影の様だ、と杲は思う。夜闇に差し込む一筋の白い光の様に、冴えて美しく、清らかで、そして、何より切ない。思わず涙を一雫流してしまいそうな、そんな響きがある。
 一瞬ぶるりと心が震えた様な気がして、杲は自身に驚いた。此の少女のたった一言に、武人たる己がそれ程感じ入ってしまった事が、杲にとっては何より驚くべき事だった。
「この様な時間に突然楢斐を訪れたのですから、何が起ころうと貴女方を責める事は出来ません。だから、どうか頭を上げて下さい」
 その言葉に、杲は組んでいた腕を下ろして顔を上げ、今度ははっきりとその瞳で予期せぬ来訪者の姿を捉える。檜皮色の双眸に映ったのは、翡翠色の被衣を纏った華奢な少女と、漆黒の衣で全身を覆う侍衛であった。
 嗚呼、この少女が椛峅の斎宮か、と、杲は自然にそう思う。杲は方士ではないのだから、当然、目前の少女から神々の力を感じる訳ではない。だが、そう思わせるだけの何かが、其の少女にはあった。
「貴女が来栖将軍ですね」
 少女が静かな声音で放った問いに、杲は一つ肯く。すると、今度は少女が杲に対して頭を垂れた。一国の姫がとった思わぬ行動に、杲は僅かに狼狽える。椛峅の斎宮に頭を下げられるなど、杲は考えた事もなかった。
「面識が無いにも関わらず将軍の御名を出してしまいました事、お詫びさせて頂きます。申し訳御座いませんでした」
 夜のしんとした中に響く、雪解け水を連想させる様な声だ。鋼の様な強さを感じる訳ではないが、何処か芯の通った、歪みも澱みもない凜とした声。その姫のしなやかな動きとは対称的に、杲はきりりとした表情で一礼を返した。
「その様な。椛峅の姫様が我が名をご存知であったという事、何より幸福に思います」
「来栖将軍と言えば玖潭が誇る女傑。その御名を知らぬ者は私の周りにはおりません」
 言って椛峅の斎宮たる少女は微笑む。杲は思わず笑みを零し、これは参った、と小さく漏らして首を竦めて見せた。
「私は祖国に尽くす一介の武人に過ぎません。あまり煽てなさいませんよう」
「あら、煽てるだなんて、そんな心算は」
 少女が澄んだ声でそう言った、その刹那、少女の隣に控えていた従者がざっと一歩踏み出し、少女を背後に庇う様な体勢をとった。闇夜で何者かが動く気配がしたのだ。杲もぴくりと眉を動かし、腰元の愛刀に手を宛う。そうした時、ふと、足元から小さく呻き声が聞こえてきた。それを認めた葵和は僅かに驚いた様な表情をしてみせる。声を上げたのは、先程葵和が一撃を与えた楢斐の兵卒であった。
「……申し訳ありません。目測を見誤ってしまったみたいで。流石は楢斐の衛兵ですね。常人であればこれ程短時間で回復はしないのですけれど」
「無駄話をしている時間はありません。彼等が目覚めるより早く、早急に姫を何処かへお連れしなければ」
 葵和に続けて紅継が言い、梶呂もそれに一つ頷く。杲が姫の方にちらりと目配せすると、彼女は真っ直ぐな視線を杲に向けた。その奥に吸い込まれそうになる様な感覚を抱く、透き通った濁りの無い双眸。此れが姫の斎宮たる所以か、と杲が胸中で呟くと、少女は己が両手を胸の前で組み合わせ、楢斐の関門を前に腰を折った。
「どうか、お願いで御座います」
 少女の声音に、躊躇いは無い。覚悟の滲んだ、芯のある響きだ。杲達が見詰める中で、少女はすっと頭を上げ、静かに、けれども強く言葉を発した。
「――玖潭の皇尊すめらみことに、御目通りさせて頂きたいのです」
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